ホーム > 制服モデルチェンジ > 採用校事例 / 東京農業大学第一高等学校・中等部

幕末から明治にかけての英傑「榎本武揚」によって明治24年に創立されて以来116年の歴史を誇る東京農業大学の予科を前身として、昭和24年に東京農業大学第一高等学校が現在地に誕生しました。平成17年4月に東京農業大学第一高等学校に中等部を設置し、中高一貫教育を始めました。
本校は東京農業大学の校風「質実剛健・自主独立」を校訓とし、「不撓不屈の精神」、「科学的探究心」と「実証精神」、「国際感覚」と「民主的な対人関係」を養うことを教育目標として、57年間にわたって多くの卒業生を社会に送り出してきました。
中等部の教育目標は「夢の創造と実現―6年かけて一生取り組みたいこと探しに行くー」で、6年一貫教育の利点を生かし、種々の体験・経験・本物との出会いなどの実学を通して、問題を発見し、その解決を自ら図ることで、学びの充実と楽しさを知り、生きた学問を身につけ、世界で通用する基礎学力の涵養に努めています。
このような本学独自の教育を「知耕実学」と称し、本校のモットーにしています。
知耕実学とは「実学をもって生徒の知性・知識・知能を軟らかく耕す」ことであります。

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東京の場合には、東京私立中高協会の中学・高校が239校あり、その学校の中で、174校が中学を持っているような状況です。近年の中高一貫教育が評価される時代となり、休校状態になっていた中学校が、再募集を始めています。しかし、新設校はほとんどありませんでした。
そんな中で、本校が中等部新設の申請を出しました。時期的にみると、「え?今頃?」というところですね。確かに、今頃ではあるけれども、今の時代を読み取ってやるならもうこの時期しかないかな、というところで始めました。今思うと、1年遅れていたら、必ずしも乗り切れたかどうかは分かりません。そのへんのスタートを切ったタイミングは、小学生の保護者の私学志向というようなものと、中高一貫教育を文科省が推進し、公立学校での導入が始まったことにうまく乗っかったところがあると思いますね。
当初予定したよりも約倍の2000名という多くの受験者が集まり、2年目も3年目もほぼ同じような受験者数で推移し、受験者のレベルも年々高くなってきています。
偏差値的の面で、受けても受からないだろうからという意味で受験を見合わせる傾向があり、今後は数が少し減るかも知れないです。
「なんでこの少子化の時代に、農大さんは中学校を開校するのですか?」という質問はかなり受けましたね。設置申請を提出した当時は、そういうことでわざわざ取材に来られたところもありました。
普通だったら、今後少子化になるのに、何で中学校を新たにやるのですか?というような、普通に考えればそう捉えられる時だったと思います。でも、やっぱり世の中はそうではなかったということですね。
まず、公立中学がいじめや授業崩壊あるいはゆとり教育での学力低下などの問題が報じられ、私立中学の評価が高くなり入学希望者が多くなったことが背景にあると思います。
2つ目は、私どもの中学校が進学校として明確に打ち出したということがあります。本校では進学指導をしっかりやります。すなわち、子供達の夢を創り、その夢を実現するために教育研究条件の整った、社会的に評価の高い大学への受験をサポートしていきます、ということです。そういう高い進路目標を実現させますということを、明確に生徒募集の段階で謳ったということがある、と思います。
3つ目は教育内容が評価されたことだと思います。自らが体験・経験を通してなぜなのかな?どうしてなのかな?どうなっているのかな?などの好奇心を持ち、自らその解決に当たることで勉強の楽しさ・必要性を認識し、能動的な学習習慣を身に付けさせる「知耕実学」の実践であります。
4つ目は、入試の日にちの設定ですね。午後に入試を持ってきたということが、受験者を集める1つの大きな要因だったと思います。東京の場合には、2月1日が解禁です。トップレベルの学校の多くは2月1日に受験日を設定し優秀な生徒を競争で集めるわけです。そこで、午前と午後の二回の受験機会があると、1日でも早く合格校を決めることが出来ることになります。そこで本校は1日の午後に入試を持っていき、その日の夜に合格発表することにしました。
ただ、1日の午後に設定すれば誰でも受けるかっていう問題じゃなくて、やっぱりこの学校なら受けておいて、第1志望が受からなくても、ここで学ばせるぶんにはいいかな、という親が学ばせたいあるいは生徒が学びたい学校の一つになっていなければならないということだと思います。
先に話したように1つは、高い進路目標を示したこと、そしてもう一つはやっぱり教育理念・教育方針に対して共感を得られているということだと思いますね。
それに加えて東京農業大学という100年以上の歴史がある、安定した、農学分野では、日本でもトップクラスの大学の系列校であるという安定感、安心感、そういうものもあったと思います。今はどちらかというと、大学附属志向型が多くなってきています。そういう意味で、東京農業大学の傘下の学校であることは、保護者に対する安心感、というようなものもあると思います。
そういう進学目標、教育理念、そして東京農業大学というようなところが、選ばれる理由だと思います。
あともう1つ、世田谷のこの地にある優秀な学校はどちらかというと男子校、女子校に分かれているのです。
共学校で評価の高い学校がこの地域には少ないのです。ただ、女子高・女子中学校がどんどん共学化していくように、世間の方向は、共学校で学ばせたいというような方向にあります。農大一高はもともと共学校ですから、農大一中が共学校として生徒募集をしたとなると、「女子ばかりの中よりやっぱり男子生徒とも一緒に友達作りをさせたい」という共学志望型の親御さんに関心を持たれ、今まで共学の実績を持っている学校であるとの安心感とがあいまって受験生が集まってきたのではないかと思います。つまり、この地域で少なかった共学校であることも大きな要因ですね。
子供にゆったりと学ばせたいですよね。中学、高校と、3年3年で受験があるということは、生徒達に受験のハードルが多くあるということで、基礎学力の修得というような問題よりも、受験対策が課題になってくるわけです。その良い例が今回の未履修問題ですよ。結局、進学実績を考えると今のゆとり教育の内容では 3年間で成果をあげることが難しくなくなるので、受験必要科目を中心にしたカリキュラムの編成をしてしまいます。本当は必要な科目であるにも関わらず、受験科目として必要がない科目だと生徒が選択しないからその時間を少なくして、受験科目に重点を置こう、という考えが高校3年間だと発生するわけですよ。
これが6年間になれば、家庭科や書写のような受験に直接関係ない科目もきちんと教育ができていきます。そういう意味での6年間は、非常に魅力ですよね。そして、6年間連続していることで授業の繰り返し部分が無くなり、時間に余裕ができますから色々な体験や経験をさせる実学教育が導入できます。
本校は、6年間あるのだから、中学の3年間は、あまり受験のことは言わない方針です。それよりは、中学生として必要ないろいろな体験・経験を通して、自分が積極的に自分から学ぼうという勉強を能動的に始める意欲を見つけさせる時間、そして夢を作る期間と位置づけています。
私は説明会でよくこう話します。本が好きな子は、1冊読んだらまたすぐ次の本を読む。読みなさいといわれて読むのではなく、自分で図書館に行って借りてくる。自分で小遣いを貯めて本を買う。その子は、なんでそんな風になったかといったら、本を読む楽しさ、読み終わった後の充実感を自分で知っているからですよ。だから一冊終わったら直ぐ次の本を読むのです。勉強だってそうです。勉強する面白さが分かれば、次から次へ「この先どうなるだろう、この先どうなるのだろう」と自分で学んでいくわけですよ。だからね、本を読むという現象と、勉強というのは、全く同じだろうと思います。
いかにして子供達に「あ、こういう分野を学んでいって、その次にこの先どうなるのだろう」と自分で興味を持つこと。あるいは「これってどうしてこうなっているのかな」という好奇心を持って、調べてみる。調べてみた結果、自分でその内のいくつかが解決できれば、「あ、そうだったのか」と、調べてみれば物事って分かるのだという経験や達成感が、能動的な学習に繋がっていきます。これができるのは、やっぱり我慢ですね。教える側の我慢なのです。何しろここまで教えなければいけない、時間がないから教えるから覚えろと言って教え込んでいく教え方と、我慢して自分で水を飲みに来るようにする。そうするためには、6年というのは非常に魅力的な気がしますね。それをうまく使えるか使えないかで、その先の成果が決まってくると思います。
大学は高いレベルの教養と専門を学ぶ機関です。基本的にね、大学に入ってからやりたいことを見つける、見つけるために行くというのは遅いと考えています。
大学は、本来専門をしっかり教える場所ですよ。だから、医者になりたい人間が医学部に行くのです。法律家になりたい人間が法学部に行く。農業や生物・食料などの勉強をしたい人間が農学部に行く。宇宙飛行士の野口さんみたいに宇宙に飛びたいという、子供の時代からそういう夢を持っていた子が宇宙工学をやるわけですよ。これが大学を志望するということだと思います。
それを、大学が高校の延長線上みたいな意識で受験生集めをしていて、大学が望む生徒像を示さないことが、日本の教育水準の低下に繋がっていくのです。高校まででしっかりとした基礎学力を身に付け、将来の夢を持って、何のためにこの大学を志望し、何のためにこの学部学科へ入学したいのかの動機をしっかり持った生徒に入学してもらいたい、くらいの入試システムを大学側にはもってもらいたいと思います。大学というのは、夢を実現するために、最後の専門的な分野を学ぶ場所であり、高校までは、そのために必要な基礎学力全般について学習する場所だと認識して頂きたいのです。
中学1年生にはゴールデンウィークの前に、2泊3日の宿泊研修に行きます。
富士の河口湖に泊って、自然の探索をします。青木ヶ原の樹海を歩き、洞窟へ入り自然の営みや偉大さに触れたり、土器やほうとうなどの物作り体験をしたり、初めて集まった仲間たちが、お互いに協力しながら友達作りもおこないます。
また、本校の遠足は日帰りですけれども、全部グループ活動なのです。平成18年度の1年生は、東大の赤門の前でバスを降り、上野の森まで約半日、自分達で作った課題を歩いて調べてその課題の解決に取組みました。あるグループは東大のことを調べたり、またあるグループは博物館や上野動物園に行って調査してきます。次に学校に帰ってきて、自分達で調べた結果を整理してクラスの全員に「僕らのグループは、こういう目的で、こういうところへ行って、こういうことを調べて、その結果こういうことが分かりました」と、プレゼンテーションをさせました。そしてクラスの仲間から、「あのグループのプレゼンは、非常に面白かったね。あるいはよくまとまっていたね」と評価会をし、次は保護者の方々に今年の遠足はこういう成果が得られました、という報告会を行いました。つまり本校は、自分達で調べる課題を持ち、課題に沿った調査を実施し、その結果をまとめて発表するというのが遠足です。本校では遠足という機会を通して、自然や仲間や経験といったものに触れていく事が大切だと考えています。
農大の併設学校の特典を生かし、総合的学習の一環として作物の栽培から実学学習を始めています。
1年生の時は、「ダイズとイネから学ぼう」のダイズ篇です。これは、一人ずつにポット(植木鉢)を持たせてダイズを栽培させます。小学校で朝顔を育てることを多くの学校が取り入れています。種を蒔いて、花がいくつ咲いたかを調べます。本校は中学ですから、植物を育てることを学問的に捉えようということで、ダイズの肥料試験を実施しています。肥料を全く入れないものから、肥料をたくさん入れるものまでの試験区を作り、同じダイズの種を蒔いたときに生育がどのように異なるのかを調べます。これが非常に面白いのは、なぜダイズを使ってそれをやるか、ということです。実はダイズは肥料をやらなくてもある程度は育つのです。ひょっとしたら肥料を沢山与えたほうが実のつき方が悪いかもしれないのです。植物を育てるために肥料が必要だということを学んでいますから、僕のダイズは肥料やらないのになんで育つの?という疑問が生まれます。そこで、最初から肥料をやらなくても育つことは言いません。栽培した結果、肥料が無いのにどうして育ったのか、という疑問について調べさせます。
ダイズのようなマメ科の植物というのは、根に、根粒菌が着生します。この根粒菌というのは、空気中の窒素ガスを取り込んで窒素の栄養をダイズに供給します。ダイズは根粒菌に光合成産物を供給する共生関係ができているのです。ダイズの窒素栄養は根粒菌が作ってくれているのです。だから、窒素栄養が少なくても育つのです。こういう現象は教科書では習うのですが、実際に根の土を落としてみたら、根に粒々がついてるよ、ということからこれが根粒菌だということに気付いてもらうのです。やはり、こういう時間をかけることが大事ですよね。
このダイズにはまだ続きがあります。2年生になったら、ダイズを原料にして自分達で醤油を作るのです。これは農大の醤油博士に教えてもらえるのです。そうすると今度は加工産業が分かるあるいは微生物の働きがわかるわけです。日本の伝統的な産業、伝統的な調味料を自分達で作るという体験をすることができます。1年生でダイズを栽培し、2年生で加工をやる。こういった、学びの広がりは1年間ではできない体験です。
2年になったら今度は、お米を栽培します。お米も、農大の農場を20アール借りて、皆で田植えし、草取りをして、10月には鎌を持ってイネ刈りして、脱穀して、お米作りを学びます。単なるお米作りだけではなくて、お米の新米と古米の相違も学習します。どうやったら分かるのだろうかということも学びます。「あ、そうか」で終わらないで、なぜそのキットを使うと新米と古米の違いが分かるのか、その原理はどうなっているのかと、そこまでちゃんと学習させます。そうすると、お米が古くなるとこういう現象が起こり美味しくなくなるのかまで理解することができます。収穫したお米は家庭科の調理実習で実際に使います。一人ひとり、ちらし寿司を作って食べてみたりします。そういうような「お米を栽培しました」で終わるのではなくて、そこから発展して色々な学習に繋げていきます。具体的な、いわゆる実学的なやり方。すなわち教室の中だけではなくて、外へ出て行って自分達で汗を流しながら考えていくことが大切だと考えています。
中学3年の修学旅行で北海道の網走から知床へ行きます。修学旅行は9月に実施しますが、これを実学の最たるものとして位置付けているんです。
修学旅行は自分達の将来の学びにつながる学習にしたいと考えています。4泊5日で行きますけれども、ほとんど移動なしで2泊は網走市に泊まり、2泊は知床に泊まります。
3つのコンセプト(産業・環境・地域交流の学習)で行きます。まず、産業学習として第1次産業の体験実習。北海道は農林水産業の日本における最大の基地ですからね。農業体験としては、ちょうど行く時期が馬鈴薯(ばれいしょ)の収穫期ですから、自分達で馬鈴薯を収穫しお土産に自宅に送ります。手で掘るということがどれだけ大変なことかを体験します。農家の20ヘクタールぐらいの広い畑の収穫を、手でなんか掘れないだろう、だから機械が必要だということに気がつけばいいですね。具体的にヨーロッパで使われている大型収穫機械での収穫も見学します。そして、手作業から機械化ということを理解させようと考えています。
もう一つは水産業です。水産業は、9月というのはシャケがオホーツク海に回帰し生まれた川を遡上してきます。実際にシャケをとることは出来ませんから、捕れたものを生徒達に一人一匹ずつ新巻鮭を作らせこれも「お土産です」と親に送ります。これが水産業の体験です。収穫から加工を実際にその生産現場に行って教わります。
2番目の自然環境の学習では、世界遺産の知床へ行って、知床財団のインストラクターに2日間、知床の自然、環境について学習をします。知床を見てきましたというのでなくて、昔の開拓地のあとを植林して、昔のような自然の状態に戻そうという運動がどの様に行われているか、野生動物の生態やその保護などについても本物を見ながら落ち着いて学習します。そして、人間と自然との共生を考えてもらいたいと思っています。
3番目の地域交流では、生徒たちに北海道で生活している人たちと、いかにして交流を持たせるかということですね。普通に修学旅行で行ったら、「ああ、東京からの生徒さんね」、「お土産買っていきなさい」で終わりますよね。それでは地元の人との間の交流になりません。それでは何をするかというと、網走市の能取湖畔で行われるサンゴ草祭りの「よさこいソーラン」に、本校の生徒もゲスト出演させて頂き、同じ踊りを地元の人たちと一緒に踊ることで共通の話題ができます。そうすれば、終わってから「いやーお前たちよくできたね」というようなことから、話しが盛り上がってくるでしょう。ということで、地域交流は「よさこいソーラン」を考えています。
なぜ「よさこいソーラン」なのかというと、これにも裏がありましてね。一つは、中学校の体育には「ダンス」が義務付けられています。このダンスの授業で「よさこいソーラン」の踊りを教え、いくつかのバージョンは自分達で創作するということを行います。もう一つは、家庭科で、衣装、法被を自分達で縫わせます。それから「よさこいソーラン」は必ず鳴子を持つので、その鳴子を技術科の授業で自分たちで作らせます。まず東京において事前に学習を行い、その学習結果を持って地元に行って一緒になって踊りの輪に入る。これこそ手作りのよさこいソーランで地域交流をしようというユニークな行事だと思うのです。
こういう3つの課題を持って、4泊5日の修学旅行をする学校は多分どこにもないだろうと思っています。
芸能鑑賞は例えば、昨年は大学の講堂に三遊亭 好楽親子(落語家)を呼んで、落語について直接学習しました。会場は笑いに包まれていました。あるいは歌舞伎に連れて行きました。このように日本の伝統文化を学習します。その中から「僕、よし落語家になる」という子供が出てもいいじゃないかと思います。それも夢なのですから。落語や歌舞伎・能・狂言という日本の伝統文化を、どのように理解していくかも含めて、いろいろなことを体験させたいと考えています。
だから何も理科の学習だけではなくて、芸能から社会に至るまで、非常に広い範囲で実学教育を実施しています。福島にブリティッシュヒルズという英国様式のテーマパークで2泊3日の語学研修も行っています。ここは、入場したら英語しか使えないというところ英語の学習、英国の文化の体験をさせています。
それから希望者は中学3年になったらオーストラリアにホームステイに連れて行きます。つまり、中学時代は教室から一歩外に出て色々なことを学ぼうよ、という姿勢なのです。
6年教育のうちで今考え実行している中学3年間。親は「もっと勉強させなくていいのですか?」と言います。私はまあまあ慌てなさんな、今の経験体験をもとに能動的な学習習慣が確立でき、基礎学力がきちんと定着できていれば、高校2年ぐらいからの受験勉強で充分間に合うと伝えています。生徒の将来がどのような社会になっているか分からないのですから、色々な体験・経験をさせ、どのような変化にも対応できる基礎学力を身に付けさせることが最も大切だと思うのです。
子供たちは行事の一つ一つを通してものすごく成長します。例えば、対人関係が良くなることから始まって、クラスの中の輪ができてくるとか仲間がちゃんとできてきます。そして友達の個性を認めることが出来ます。それから、図書館の利用のしかたが変わってくるとか色々な意味で自分で発展的に行動するようにはなってくることを感じています。
クラブ活動も熱心です。本校のクラブ活動は、9割以上の生徒たちが何らかのクラブに入部しています。勉強といかに両立させていくかということを目指しています。
ですから、スポーツ推薦みたいなこともやっていません。そういう中で、放課後、みんなで目標を持って一緒になって汗を流していくクラブ活動は子供たちの楽しみにもなっています。全然レギュラーになれなくて、3年間クラブをやりましたという生徒が何人もいます。また、多くのクラブが高校生と一緒に活動しています。高校生は自分の弟や妹に教えるような気持ちで、暖かく指導をしてくれています。その点中学生と高校生の間におかしなわだかまりはありません。
本校は50年の歴史のある高校ですから、高校に制服がありました。ですから、当たり前のように中学にも制服を導入しました。
制服を着用せる理由としては、自分は農大一高なり農大一中の生徒だということを常に意識させることにあります。私服ではその意識は出てきません。制服を着て通学をすることによって、自分はこの学校の生徒だと自覚をして行動する、自分を律する意味で、制服というのは大きな役割を持っていると思います。
もう1点は、何を着ようかなんて悩まないですむことでしょう。特に女の子は、おしゃれに気を使う年頃になってくれば、おのずとそこには競争心も出てくるでしょう。制服にしておけば、学校に行くときには何も考えないで制服着ていけばいいわけですから、よけいな神経を使わなくてもすむわけです。そういう意味でも制服の役割というのは、あると思います。
正しく着ましょう、というしかないですね。本校の場合には、始業式や終業式等の正式な行事のときに正しい制服の着用を義務付けています。人の前に出るときには、きちんと制服を着用しましょう、というようなことは言います。特に「服装は人となりを表す」といわれるように、制服は正しく着ることで生徒としての自覚が生まれると指導しています。
着崩しを厳しく取り締まっていく方針ではないですが、意識的に生徒がそういうことをやらないような学校にしたいなとは思います。そのためには先生が気のついたときに注意することや、ホームルームで身だしなみについて指導するように心がけています。学校でも注意しますが、制服の正しい着用については、親のひとこと「ちゃんと制服着ていきなさい」、「このズボンの裾はどうしたの?」、「ちゃんとはかないから裾が切れてくるでしょ」「そんなにスカートが短いと危険よ」というような注意があれば正しく着用するようになります。
それほど難しい工夫はしていません。中学生は中学生らしい可愛らしさを強調し、高校生は少し大人としてのおしゃれができるようなものにしているくらいだと思います。
例えばスカートは、高校はグレーですが、中学生には赤を使ったりと、中学生のほうはかなり可愛らしさを強調できるようなデザインや色合いにしました。
それに対して、男子の場合の制服はボタンと夏服のズボンを変えているだけで、他は全く変えていません
学校の役割は、生徒が登校してくれなかったら教えられないのです。親におこられながら学校へ行くのではなくて、朝元気良く一歩を踏み出せるような学校であれば、勉強はやっていけるのです。学校はそういう場でないといけないかなと思います。行けば友達と遊べる、話しができる、今日は昨日のこの話をしたいな、悩みを聞いてもらいたいな、一緒にごはん食べよう、汗流そう。このような楽しい場所であることが理想です。学校に行くといじめにあう、勉強が出来なくて先生に怒られる、そのような暗い気持ちになるような学校では登校したくなくなります。
クラブの朝練に参加する生徒、クラブの朝練は無いけど授業始まる前に皆で遊ぼうと言って、集まるようなことから一日が始まり、チャイムが鳴れば教室に入って勉強する、そういうメリハリのある学校。放課後も自習をしたり、友達とおしゃべりをしたりして下校時間ぎりぎりまで学校にいる、というような学校が良いのじゃないかな、とは思っているのです。
本校の生徒は朝も早く、放課後も帰らないですよ。遅くなると危険だから早く帰りなさいといって帰すことが多いですね。それだけ子供たちが学校にいることに、雰囲気的にも環境的にも、嫌なものを感じない。だからいるのだと思うのです。このような授業以外の時間での生徒間の交わりの中から社会性や心の教育ができていくのです。教師が教えることよりも成果が上がることもあるのではないかと思います。仲間同士の触れ合いが、人間関係を作り上げていきます
しかし、そのときに教師が常に目を向けていることが大切です。野放しにしていれば、みさかいがなくなり、限界を超えることだってあります。そのときにきちんと叱ることができるかどうかが鍵になります。
本校の教師は、生徒一人ひとりを見てこの子に対してはどうしよう、この子に対してはどうしようと、一人ずつの生徒にあった指導ができるようであってもらいたいと思います。
だから生徒一人ひとりが主役なのですよ。一人ひとりの主役に演技の指導をしていきます。どんなに素晴らしい演出家に指導を受けても、演技する本人が努力をして前進しようとする意欲が無ければ、本番で成果を挙げることが出来ません。生徒と先生の関係も同様で、生徒本人が努力しなかったらどんなに素晴らしい教師に教わっても、夢の実現は出来ないと思います。
だから、生徒一人一人が学べるように、学力がつくようにアドバイスはしていく。やる本人一人ひとりの能力や性格が全部違いますから、この生徒にはこうしてやろう、この生徒にはこういう声をかけてやろうとかですね。時には軽く殴ることもありますよね。本当は殴ってはいないけれども。でも殴る手に愛情があれば殴られたことに生徒は納得するのです。教員一人ひとりが生徒一人ひとりの個性をどれだけ大切にして見ていくか、だろうと、思います。
私が教員を見ての評価ではなくて、周りで見ている方々がどういう風に評価をするかだと思います。例えば、制服のメーカーさんは色々な学校を回っておられますから、その方がA校さんにも、B校さんにも行ってみて、そこに比べて、農大一中・一高はこういうところに課題があると指摘されたり、ここは確かに変わってきているなと評価していただけることもあります。そういう比較対象の情報をたくさん持っているから、非常に怖いのです。長い付き合いの中でうちの学校の雰囲気なり意欲なりがどう変わってきたか、生徒の雰囲気もつかんでおられると思いますから。
だから我々に聞くより、そのような方々に聞いたほうが、ある意味ではうちの本当の評価が分かると思います。あるいは塾や中学校の先生方がどのように本校を見ているか、あるいは本校の保護者がどのように学校を評価しているかも重要ですね。
まず、校長が管理者責任をはたすことだと考えています。私は大学教授と併任ですが、100人前後の教職員と1500人の生徒を預かっているわけですから、そんな片手間で出来る仕事とは思っていません。やる以上は、その責任者としてどれだけのエネルギーをこの学校運営にかけられるかというのが、僕自身の認識です。
次に教員の意識改革です。学びたい学校として生徒が志望してくれなければ生き残ってはいけません。僕が今一生懸命やっていることは何かといったら、20代の教員に、これからまだ30年以上ここで勤めようと思ったら、30年つぶれない学校でなければ困るでしょう?そのために、今何をしなければいけないかということです。
校長としてたまたま校舎の建て替えから始まって、いろいろなシステムの改善をやってきました。これで世間に評価される安定した学校として、成長していかなかったらいけないと思います。学校といえども私学は生徒の納付金で経営をしているわけですから、生徒が集まらなければつぶれるのです。農大一高一中が生き残っていくためには、本当に今頑張らないといけない、とそういう意識を常に持って改善改革に努めなければならないと思っています。教員が変わらない限り、絶対学校は良くならないと思います。あともう一つは、規則、規則でものごとを判断するものではないということです。生徒は生きているのですから、100人が100人みんな違う条件を持っているのです。単純に機械的に割り切るようなことができないのが教育なのです。そういう意味で、前に述べたように、生徒が主役であって、生徒と向かいあって生徒の視線で考えていきなさいと話しています。
一方、教員として大事なことは、どれだけ教師としての権威を持つかも忘れてはならないことです。ある大学の先生が新聞に書いておられましたが、いじめの多いクラスというのは、友達感覚の先生が担任しているクラスだそうです。あたかも優しい先生、生徒の気持ちがわかる同じ仲間みたいな先生。ため口が聞けるような先生。そういうようなクラスにいじめが多いということです。教師が教師としての権威を持っていなかったらだめです。善悪がきちっと言えるということが必要です。しかるときにはしっかりとしかることの出来るということです。それなりの権威の上でやることに意義があります。
どうやって権威を持ち、その後ろに何があるかって言ったら、自己研鑽しかないのです。教員は自己研鑽をすることによって、自分を高めて初めて教員としての権威を持てます。
そして、教員としての権威を維持し続けることによって、生徒にきちっとしたものを伝えられます。自己研鑽って何かといったら、100の情報を入れて自分の中で再構築して、1つ発信するぐらいの勉強をすることです。今の、最後のところは受け売りですが、立花隆さんは、100、200の情報で、初めて一つのものが書ける、と言っていました。僕はね、教師も同じだと思います。毎年同じノート使って授業やっていてはだめだということです。
それは、退路を断ったということです。
言い切ったのは何かといえば、ここで給料をもらっている教員たちに、まずそういう意識を持ってもらおうと考えたからです。
学校はマニフェスト掲げ、教員はそれを「やりましょう」ということでスタートしました。掲げた以上は、それを実現させるのが学校と教員の責任ではないかということを認識させるために、きちっとした数値目標を掲げました。それから保護者に対しても「責任を持ってそれをやります」と言うことをわかりやすく伝える意味もあります。言い切ることによって「あ、学校が責任持ってくれているんだな」ということが評価になり、じゃあ子供を預けようかなという事になります。
偏差値で輪切りにすることの是非がありますが、公立小学校が進路指導をしないことで、保護者は塾に通わせ子供の将来のための投資をしていると思います。現に多くの週刊誌が大学進学率や進学先を記事にして掲載しています。このような記事を掲載することで週刊誌が売れるのです。このことは、親が子供の進学先に関心を持っていることの現われだと分析しています。しかし、学校は入学試験をやっていますからその結果が必ずしも偏差値どおりにならないことがあります。ですから、学校は偏差値万能と見てはいないと思います。保護者が子供の学習程度あるいは受験勉強の到達度を他の子供さんたちと比べたり、志望校選考の情報として利用するのにはわかりやすいのではないかと思います。
いじめはなくならないでしょう。大切なことはいじめが深刻になる前に教師が指導に入ることだと思います。授業中だけでなく、休み時間や放課後の生徒たちの行動にも注意をはらうことです。それと親の協力も大切な条件です。私は親に、学校は常に目が届いているわけではない。目の届かない時間がたくさんあります、と手紙を出しました。だから、家庭で何かおかしいなと思ったら情報をくださいと伝えました。自宅にいるときの子供の様子でいつもと異なるようなことがあるときには、担任に連絡をして学校と情報を共有し解決策を見出していく努力が必要です。家庭と学校がお互いに子供のためにどうすることが一番いいのかということを考えればいいのではないかと思います。
校長になって最初に導入したのは、生徒による授業評価です。これは毎年、非常勤講師に至る全教員について、生徒に授業評価をやってもらっています。それから、公開授業もやっております。授業参観はどこの学校もやっていると思うのですが、本校は他校と違うと思っています。本校は授業参観週間を1週間やります。そして参観の時間も決めないのです。保護者の皆さん、いつでも見に来てください、どの授業でも結構です。子供が「あの先生の授業って分かりやすくていいよ」と言った授業が、反対に「嫌な先生なんだ。へたくそでいつまでたっても理解できないよ」と言った授業が、どんな授業なのか見てみようという風に見に来て下さってもいいです。あるいは子供の教室での状態を見てみることも大切です。そして家庭で学校のことが共通の話題になってもらいたいです。
帰るときにアンケートを書いてもらいます。これが大変参考になります。ある意味で学校の外部評価と見ることが出来ます。授業の充実や学校改善の提言として受け取り、検討をさせてもらいます。
学校の宣伝で一番効果のあるのは口コミだと思います。特に親のシャワー効果ほど効くものはないのです。だからよく教員に言うのは、近所の奥さんが、「奥さん、うちの子もそろそろ受験だけど、お宅のお子さん農大一中に行っているようだけれども農大一中ってどう?」と聞かれて「子供を農大一中に入れて失敗しちゃった」と言われたら終わりなのです。もうその奥さんは自分の子供を行かせようとも思いません。「いやー良い学校入ってね、本当にうちの子は楽しくのびのび勉強させてくれる良い学校よ」と言って頂けたら「そう。それじゃ、説明会に行って話しを聞いてみようかな」となるわけです。これですよ。どんなポスター作よりも保護者・生徒・塾の先生がどのように評価し、関係者に本校のことを話してくれるかによって決まると思います。怖いですよ。
だから、僕は良いにつけても悪いにつけても親のシャワー効果だと思います。その点から見ると、農大一高はもともとリピーターが多い学校です。お兄ちゃんが入学してよかったから弟や妹も受験させよう、それから卒業生の子供が多いと思いますね。
そのためには、やはり日頃の対生徒と先生の毎日毎日の接点しかないです。そこでどれだけ勝負ができているか、だと思うのです。これは、子供が家へ帰って、どんな報告をしているかに繋がっていきます。嫌な先生の話ばかりするか、あの先生怖いけれども質問すると丁寧に教えてくれるなど。親への情報は、基本的に子供からしか入らないわけですからどれだけ生徒を主役として毎日毎日、教員が指導をしているかが評価されるのではないでしょうか。
大学は全入時代を迎え受験生の囲い込みが盛んです。その意味から大学の付属あるいは併設の学校があることは一定の受験生を確保できる点から有利になります。また、私学は建学の精神にもとづいて教育を実施しています。その意味で建学の精神を理解して入学してくる附属生は大学として貴重な学生になると思います。今まで、中高一貫教育といわれていましたが、これからは中高大学一貫教育が盛んになる可能性が高いですね。
一方、保護者にしてみると関連の大学へ行けるのかな、という安心感につながってきます。特に中堅の大学や単科大学の場合は中学入学時には難関国公立を目標にしていますが、最後の伸びが足りなかったようなときに系列の大学に入学できる保証があれば安心しますね。
学校は学問を教授するところであることは当たり前なことです。しかし先にも述べましたように最近の週刊誌を中心とした大学進学の競争意識はいささか行き過ぎではないかと思われます。初等中等教育の期間は大学受験だけを指標として教育するのではなく、社会に出てから遭遇する多くの問題に的確な判断をすることの出来る、広い範囲の学力を身に付ける期間であると思います。同時にどのような分野で社会貢献するのかをしっかり考え、その目的に最も適した進路の選択をサポートしていかなければならないと考えます。名前だけの大学進学でなく、その生徒にとって最も適した専門を教授してもらえる大学を選び、その実現のために必要な学習を提供するのが学校の役割ではないかと考えています。
次に初等中等教育では心の教育をはずすわけにはいきません。しかし、心の教育は大変難しい課題です。例えば、建学の精神に宗教を掲げている学校であれば案外やりやすいのかもしれません。普通の学校は道徳の時間では済ますことの出来ない厳しい問題ですね。
私は授業としての道徳よりも、教員あるいは学校の日常の教育姿勢によって教えていくものではないかと考えています。具体的には教員が生徒にどういう愛情を持って、どういう声かけをしていくかによるのではないかと思っています。例えばやってはいけないことはいけないとはっきり言えること。教師が生徒を分け隔てなくきちっと見てあげることで、自然に事の善悪の判断力を養わせることにつながると思います。すなわち、自己規制がかけられるように教育することです。これ以上やってはいけないということを気付かせる教師が必要です。いろいろな場面、場面で生徒を常に見て、声をかけていける教師が、きっちりと役割を担えば、心の教育ができるのではないでしょうか。本校の教員には常に教えるマシンにならないで、心の通った教育をしましょうと話しています。
公立中学に入学すると歩いて20分ぐらいの範囲までで通学しています。しかし、私立中学に入学すると中学1年生のわずか12歳の子供が、ラッシュの時間帯に1時間から1時間半かけて通学してきます。多くの仲間との楽しい語らいや充実した学習が出来る学校であれば、楽しい場所に行くのだから長時間かけて通学することが辛くなく、元気に「学校へ行ってきます」と言って、家を一歩踏み出してくれると思います。そういう学校にならなければなりません。生徒が安全で安心して楽しく学べる場所にしなくてはいけないと思うのです。